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東京地方裁判所 昭和46年(ワ)9667号 判決 1973年11月30日

原告 協栄商事株式会社

右代表者代表取締役 吉田忠一

右訴訟代理人弁護士 新家猛

同 坂野滋

同 瀬尾信雄

同 近藤弦之介

被告 東京都葛飾区

右代表者区長 小川孝之助

右指定代理人 柴田欣次

<ほか四名>

主文

被告は原告に対し金六〇万円およびこれに対する昭和四六年一一月一四日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

原告のその余の請求を棄却する。

訴訟費用はこれを二分し、その一を原告の負担とし、その余を被告の負担とする。

この判決の第一項は仮に執行することができる。ただし、被告が金三〇万円の担保を供するときは右仮執行を免れることができる。

事実

第一当事者の求める裁判

一  請求の趣旨

1  被告は原告に対し、金一三〇万円およびこれに対する本件訴状送達の日の翌日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行の宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二当事者の主張

一  請求の原因

(一)  (原告から大庫かねに対する金銭の貸付ならびにこれに伴う公正証書の作成および担保権設定契約とその登記)

1 (第一回貸付)昭和四〇年一二月九日、原告は訴外大庫かねの代理人と称する訴外北嶋友良との間に右大庫を債務者とし、金一〇〇万円を、利息年一割五分、遅延損害金年三割として返還する約束で貸付(以下、第一回貸付という。)け、同日付東京法務局所属公証人居森義知作成昭和四〇年第三九八一号金銭消費貸借契約公正証書の作成を遂げ、かつ同日、右北嶋との間に右債権の担保として、右大庫所有の東京都葛飾区小菅三丁目一一四番宅地八八坪(分筆前の表示。分筆後の表示は、同所同番一宅地九七・九二平方メートル、同所同番二宅地一五四・二五平方メートルおよび同所同番三宅地三八・七一平方メートルの三筆となる。以下、本件土地という。)につき右大庫をいずれも登記義務者とする抵当権設定、停止条件付代物弁済および停止条件付賃借権設定の各契約を結び、同月一〇日東京法務局葛飾出張所受付第三三四五六号ないし第三三四五八号をもって右各登記手続を経た。

2 (第二回貸付)さらに昭和四一年一一月七日、原告は大庫の代理人と称する北嶋との間に、大庫を債務者とし、金三〇万円を利息年一割八分、遅延損害金日歩九銭八厘として返還する約束で貸付(以下、第二回貸付という。)け、かつ同日、右北嶋との間にこの債権の担保として本件土地につき右大庫を登記義務者とする抵当権設定契約を結び、同年一二月九日前記出張所受付第三八九一四号をもってこの登記手続を経た。

(二)  (大庫から提起された訴訟における原告の敗訴)

ところで昭和四四年三月五日、大庫は原告を相手として東京地方裁判所に、前記北嶋が代理人としてなした第一回貸付および第二回貸付ならびにこれらに伴う前記各担保権設定等の契約およびその各登記手続は、いずれも大庫の不知の間になされたものであるとして、各貸金債権の不存在確認および各登記の抹消登記手続を求める訴訟を提起し、該訴訟は同庁昭和四四年(ワ)第二二五七号事件として同庁民事第三五部に係属するに至ったので、原告は抗争したものの、第一、二回貸付の各事実は所詮、大庫の娘婿たる北嶋において、大庫の実印に似た印章を偽造したうえこれを使用し、大庫の代理人とし右偽造にかかる印影につき被告からいわゆる印鑑証明書の交付を受け、該証明書を利用して原告との間に大庫を債務者ないし登記義務者とする前記各契約を結び、各登記申請手続に及んだものであるとの事実認定に帰結されて昭和四六年九月二三日大庫の右各請求を認容する旨の判決が云渡され、原告の敗訴に確定した。

(三)  (北嶋の無資力)

前記北嶋は全く無資力であるうえ、現在服役中である。

(四)  (原告の蒙った損害)

以上(一)ないし(三)の各事実により明らかなとおり、原告は前記貸付金合計一三〇万円につきその債権回収は不能に帰したので、同額の損害を蒙った。

(五)  (右損害と被告の印鑑証明書発行事務担当職員の行為との因果関係および被告の過失)

1 (因果関係)原告は、第一回貸付、第二回貸付にあたり、大庫の代理人と称する北嶋から、大庫名義の委任状の真正であることを証する印鑑証明書が提出され、これに基づいて公正証書が作成され、登記手続がなされたがゆえに、右北嶋に大庫を代理する権限があると信じて貸付に及んだものである。すなわち、

(イ) (第一回貸付の経緯)昭和四〇年一二月初頃、原告はその友人の紹介により大庫の代理人と称する北嶋から、本件土地に抵当権を設定することを条件として金員の貸付を依頼された。そこで原告は北嶋の案内で本件土地を見分し、公正証書の作成ならびに抵当権設定停止条件付代物弁済および停止条件付賃借権設定の各登記手続を経ることを北嶋に求めた。同月九日、北嶋は大庫の代理人として、各大庫名義の委任状および印鑑証明書一通(後者は昭和四〇年一二月九日東京都葛飾区長小川孝之助作成証第一四七五七号、以下、A印鑑証明書という。)を提出して公証人居森義知に対し公正証書の作成方を委嘱し、同日、北嶋を大庫の代理人として前記金銭消費貸借契約公正証書が作成され、さらに同日、北嶋は大庫の代理人として原告との間に右公正証書により負担する債務の担保として本件土地を提供してこれに前記抵当権を設定する等の契約を締結した。そして同月一〇日、北嶋は右登記手続申請のため各大庫名義の委任状および印鑑証明書一通(後者は前記区長作成証第一四七五六号、以下、B印鑑証明書という。)を提出したので、原告はこれらによって右北嶋に大庫からの代理権が存することを確認し、北嶋に対し金一〇〇万円を交付した。

(ロ) (第二回貸付の経緯)昭和四一年一一月初頃、前記北嶋は再び大庫の代理人として金三〇万円の貸付方を懇請したので、原告は同月七日、北嶋との間に前記金銭消費貸借および抵当権設定の各契約を締結し、金三〇万円を貸付けたが、その後右北嶋から各大庫名義の委任状および印鑑証明書一通(後者は昭和四一年一一月二九日前記区長作成証第一五八三九号、以下、C印鑑証明書という。)の交付をうけたので、同年一二月九日前記抵当権設定登記手続を了した。

2 (被告の過失―印鑑証明書の過誤発行)

(イ) 前記AないしCの各印鑑証明書計三通は、前記(二)のとおり北嶋が大庫名義の印章を偽造したうえ、大庫の代理人として右印章を使用して偽造にかかる印影を顕出し、被告に対し印鑑証明書の交付方を申請したところ、被告の印鑑証明書発行事務担当職員において大庫の登録済印鑑の印影と相違ない旨を証明して発行交付したものである。

(ロ) ところで、印鑑証明書発行事務は、いわゆる公共団体で特別区たる被告がその公共事務として処理するもので、それ自体文書の作成名義人の同一性、無面職者間の取引において使用されるほか、公正証書作成事務の嘱託、不動産登記申請手続等ときに法令上も必要とされ、また委任状の真否、代理権の存否についても重要な判別資料とされ、これらにより印鑑証明書は財産上の取引の効果の帰趨に重大な影響を与えるものであるから、公権力の行使に当る公務員としてこれが証明発行事務を担当する者は、その職務を行うについて格別の注意力を用いて照合し実正の申請印影についてのみこれが証明をなすべく、相違する申請印影について誤まった証明発行をなし、ひいて財産上の重要な取引等の安全等に危殆を招来する結果を防避すべき注意義務がある。

(ハ) ところが、前記三通の印鑑証明書の証明発行事務を担当した被告の担当職員は、右三通の申請印影が大庫の登録済印影と相違することが明らかであるのに、この相違を看過して証明発行したものであって、同人は前記注意義務を怠ったものである。

(六)  よって、原告は被告に対し国家賠償法一条に基づき前記(四)記載の合計金一三〇万円およびこれに対する本訴状送達の翌日から完済に至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求の原因に対する答弁および抗弁

(一)  (答弁)請求の原因(一)、(二)、(三)および(四)の各事実はいずれも不知。同(五)の1および2の(イ)の各事実のうち、A、B両印鑑証明書は北嶋において大庫の代理人と称して被告にこれが交付申請をなしたものであること、AないしCの各印鑑証明書につき被告の担当職員が右大庫の登録済印鑑と相違ない旨証明して発行交付したものであることは認め、C印鑑証明書につき大庫の代理人として交付申請をした者が北嶋であるとの点は否認し、その余の事実は知らない。同(五)の2の(ロ)の各事実のうち、印鑑証明書発行事務がいわゆる公共団体で特別区たる被告がその公共事務として処理するもので、原告主張の用途に供されるものであり、時に法令上も必要とされるものであることはいずれも認めるが、被告の負担すべき注意義務の内容(範囲)については争い、その余の事実については不知。同(五)の2の(ハ)の事実は否認する。

(二)  (積極的主張)

1 (印鑑証明書発行上の瑕疵ないし担当職員の過失の各不存在)

本件印鑑証明書については、被告の担当職員において後記のとおり、これが証明交付申請のための来庁者につき、その提示の委任状によりそれぞれ申請代理人自身であることおよびその被授権代理権を確認し、あわせて証明交付申請のため所携の印章と大庫の登録済印章とが形状において同一であり、両印影には同一性があるのでそれぞれ証明発行交付したものであって、本件印鑑証明書は真正であり、この間瑕疵はなく、また右事務を担当した各職員は、後記のとおり当時市区町村で一般に行われている印鑑証明に関する事務手続と同様の方法によって、印章、印影の同一性、申請代理権の存在等につき慎重に調査確認したうえ、証明発行交付事務を行ったものであって、当時、一般に印鑑照合のための各種機械器具はないのに、申請者は窓口に列をなして交付を待つ実情(被告区の第一〇出張所における当時の右申請者は一日当り平均五〇名を超え、しかも申請時間帯は乃午前一〇時至正午、乃午后一時至三時の各二時間に集中していた。)にあったことに鑑みると、住民への迅速な応対奉仕の見地からは、右の如き通常の照合方法により照合をなし確認することはやむをえないことというべく、かかる方法によっても相違を容易に識別しえない場合は照合器等のより高精度の照合方法を採らなかったとしても、職務上の義務を怠るものとすることはできないものというべく、本件にあっては各担当職員において前記方法によるいわゆる肉眼照合によっては、両印影等の同一性につきなんらの疑念をいだかなかったほど酷似していたもので、両印影間の差異を発見するには照合上精緻極まる技術と機器を要すべく、この必要は不可能を強いるに等しく、結局担当職員に証明発行交付につき過失はない。

(イ) (本件印鑑証明書の申請、証明発行交付に至るまでの経緯)(a)昭和四〇年一二月九日、大庫の代理人と称する北嶋が被告の第一〇出張所に来庁し、印鑑証明事務担当者手嶋政子に対し、大庫名義の申請委任状を添えて印鑑証明書四通の交付申請書を提出したので、右手嶋は、これらを受理したうえ、北嶋をして四通の印鑑証明用紙に大庫の住所、氏名、生年月日を記載させて、その記載内容に誤りがないことを確認し、さらに同人の所携していた大庫名義の印章を提出させて申請書および証明用紙の所定欄に右印章を押印し、まず、右委任状の記載内容によって北嶋が被授権代理人自身であり、かつ大庫の代理人であることの判断を得、ついで右提示にかかる印章につき印鑑登録簿に記載されている大庫の登録済印章と材質、方法に関して対比した結果、いずれも黒水牛製、長径一一ミリ短径八ミリの隋円状で両者は同一であることを確認し、両印影を肉眼で照合した結果、その大きさ、型、字体において異なるところがないので、同様同一のものであるとの判断に達したので前記四通の印鑑証明書(同日付証第一四七五四ないし第一四七五七号)を発行交付した。(b)昭和四一年一一月二九日、大庫の代理人と称する窪木康が前記第一〇出張所に来庁し、印鑑証明事務担当者高橋摂子に対し、大庫名義の申請委任状を添えて印鑑証明書二通の交付申請書を提出したので、右高橋は右(a)と同様の事務手続で、交付申請書、申請委任状により調査した末、右窪木が被授権代理人自身であることを確認したうえ、その際所携の印章自体とその印影とにつき、大庫の登録済印章自体と材質、寸法において同一であり、両印影は肉眼照合の結果大きさ、型、字体において異なるところがないので同一のものであるとの判断に達したので、二通の印鑑証明書(同日付証第一五八三八号および第一五八三九号)を発行交付した。

(ロ) (印鑑証明事務処理の実情)昭和四〇年ないし昭和四一年頃の間の地方公共団体における印鑑証明事務処理の実務中、印章自体または印影の同一性に関する識別は、通常(a)印章の材質、寸法の対比、(b)提出印章を自ら押印しての印影の顕出、(c)両印影を近接させて肉眼により照合、(d)疑義あるときは、担当者の創意と工夫(当時はセロハン紙に顕出した印影を重ねて照合する)による照合を行うほか、(e)他の職員の協力を得て照合する方法によっていた。なお、担当者自身による申請書および用紙への押印は、所定欄内の鮮明な印影の確保による照合精度の向上に資するにあり、申請代理人の同人性、授権等につき疑義を生じたときは住民票戸籍簿等によって調査し、または本人に電話等によって直接問合わせる例であった。

2 (原告の蒙った損害と本件印鑑証明書発行交付行為との間の相当因果関係の不存在)

(イ) (両貸付を通じての一般論)印鑑証明書に関してはその使途につき関知しないので、事物の性質上この証明発行者において印鑑証明書所持者の行為による危険もしくはその具体化たる損害を防避することはできないし、この理は仮にその過誤発行の例にあってもこれを回収する強制的措置もなく、また無効宣言の方途もないことを併考すると同断であり、過誤発行と損害との間に因果関係を肯認し、発行者たる地方公共団体等に損害賠償責任を肯定する見解は、公平の原則に反するといわざるを得ない。

(ロ) 特に第二回貸付については、昭和四一年一一月二九日付印鑑証明書の発行に先立つ二〇日以前に、原告において北嶋に対し貸付金を交付したものであることが明らかであるから、既にこの点において発行と貸付、従ってその回収不能による損害との間には相当因果関係がない。

(三)  (損害の一部填補または充当に関する仮定的抗弁)

北嶋は、第一回貸付分につき、利息その他の費用として五万円を天引されて九五万円を受領し、その約定利率は月三分ないし四分であって同人は原告に対し昭和四〇年一二月から昭和四一年一一月までの間毎月右約定利率の金員を支払ったものであり、第二回貸付分についてもその約定利率は右と同率であり、貸付をうける際同率による金員を天引されたものであるところ、右天引および約定利率をそれぞれ利息制限法を適用し、その範囲内に引直すと、その元本の現在額は九三万五六七七円(月四分であった場合)、または多くとも一〇八万一二六八円(月三分であった場合)である。

(四)  (過失相殺の仮定的抗弁)

本件損害の発生(または拡大)について、原告側にもつぎの如き過失がある。すなわち、原告は昭和二七年五月一五日設立された金融業者たる営利法人であるから、金銭の貸付にあたっては諸種の方法により、相手方の資産、信用、経歴等に関して十分な調査をなしたうえ貸付すべきであるのに、主債務者たる大庫には従来面識も取引もないのに、単に知人の風評によって借受希望者のいることを知り、原告代表者たる吉田忠一において北嶋方を往訪しただけで、同居の親族につき身分関係を確認するための調査も近隣人からの聞込み調査もせず、貸付金を直接手交した北嶋の住所と大庫の住所との異同についても配慮せず、大庫本人には全く面接もしないで北嶋の提出した印鑑証明書等と北嶋の言とによって本件貸付行為に及んだものであって、債務者本人の意思確認には電話照会等軽便な方法があること等を併考すると、本件損害の発生または拡大につき原告にも重大な過失がある。

三  抗弁に対する原告の答弁

(一)  仮定的抗弁(三)の事実のうち各貸付の約定利息がいずれも月三分であり、第一、二回貸付分とも被告主張のとおりの天引または利息(ただし利率は月三分)の支払を受けたこと、これにより被告主張のとおり利息制限法を適用し、その範囲内に引直すと、残存元本額が一〇八万一二六八円になることは認めるが、その余の事実は否認する。

(二)  仮定的抗弁(四)の事実のうち、原告が大庫についての確認等を怠ったとする主張の基礎事実は否認し、原告側にも過失があったとの主張は争う。

第三証拠≪省略≫

理由

請求の原因(一)の事実(ただし、いずれも遅延損害金の点を除き、かつ約定利息についてはこれを月三分として)は、≪証拠省略≫によってこれを肯認することができる。≪証拠判断省略≫

請求の原因(二)の事実は、≪証拠省略≫によってこれを肯認することができる。

≪証拠省略≫を総合すると、北嶋はさしたる資力も信用もないのに昭和四〇年から昭和四一年頃の間、原告ほか五名位から合計一二〇〇万円を借用したものの、その殆んど全部につき自ら返済する資力も信用もないところから返済しないまま、宇都宮刑務所で服役し、その後出所したものの、現に妻子三名を擁しながらいわゆる間借生活で日給約一八〇〇円程度の日雇雑役夫として稼働し僅かに糊口をつなぐもので、原告からの借受金につき、現在および近い将来に返済する目途は皆無に等しいことが認められ、この認定を左右するにたりる証拠はない。

第一、二回各貸付により原告が現に回収し得ざる債権額について検討するのに、各貸付の約定利息がいずれも月三分であり第一、二回貸付分とも原告において北嶋から被告主張のとおりの天引または利率月三分の割合による利息の支払を受けたこと、これによって利息制限法を適用し、その範囲内に引直した残存元本額を算出すると被告主張のとおり合計一〇八万一二六八円に達することは当事者間に争がなく、この事実に冒頭認定のとおりの約定利率の定めを併考すると、結局原告が本件第一、二回各貸付により回収しえざる残存元本額は、被告の仮定的抗弁の第二次的主張のとおり、右一〇八万一二六八円であると認められる。

請求の原因(五)の1および2の(イ)の各事実のうち、A、B両印鑑証明書は北嶋において大庫の代理人と称して被告にこれが交付申請をなしたものであること、AないしCの各印鑑証明書につき被告の担当職員が右大庫の登録済印鑑と相違ない旨証明して発行交付したものであることはいずれも当事者間に争がなく、この事実に≪証拠省略≫を総合すると、請求原因5の1の(イ)および(ロ)(ただし、後者の申請代理人は窪木康またはその弟たる窪木実として)の事実を肯認することができ、この認定を覆すにたりる証拠はない。次に請求の原因(五)の2の(ロ)の各事実のうち、被告がいわゆる公共団体たる特別区であって印鑑証明書発行事務をその公共事務として所管すること、印鑑証明書が原告主張の用途に供されるもので時に法令上も必要とされるものであることは、いずれも当事者間に争がなく、本件印鑑証明書の申請、証明発行交付に至るまでの経緯および印鑑証明事務処理の当時の実情は、被告主張の事実摘示二の(二)の(イ)および(ロ)のとおりであることは、≪証拠省略≫を総合すると、これを肯認し得、この認定を左右するにたりる証拠はない。ところで、被告は、AないしCの各印鑑証明の証明発行交付行為につき被告の担当職員において過失がない旨主張する(なお、被告はこれが発行上の瑕疵の不存在をも主張するものの、その主張の基胎事実は申請代理人または印章もしくは印影に関する人的物的同一性を云為するものであって、所論は所詮無過失の主張と基を一にすべく、当裁判所は独立の主張とは解しえないことを附言する。)ので按ずるに、人格主体の同一性に関する印鑑またはこれを用いてなすいわゆる印鑑証明書の果すべき蓋然度もしくは正確度については、例えばこれを泰西諸国で頻用される署名(サイン)と対比するとき、偽変造の難易、冒用等による紛議発生の頻度等からすれば或いは一籌を輸するべきも、他面配偶者、親子等自他ともに分身をもって遇すべき間柄に在る相互者において、彼の命によって此が動く場合はもとより、此において彼のために図り、かつ客観的にもその効用のみ彼のために示現するが如き場合または一般に使者による使用を望む場合にあっても、なお、余人をもっては替え難い署名制度は、弾力的運用において、はたまた筆写能力を当然の前提とする点において印章制度に及ばざるの感あり、両制度の優劣をにわかに決しうべくもないが、我国では印章もしくは印影または印鑑証明書は人格主体の同一性識別判定の最も重要な一資料として広く利用され、その存在するところ同一性に関して寄せられる期待または措かれる信頼度はきわめて高いものであることも実情であるから、印鑑証明制度の運用にあたっては、その発行者たる地方公共団体において、該証明書の果たす社会的役割の重要性を都度確認しつつ、他方偽変造、冒用等物理的にもしくは現下の社会生活上この制度を悪用することもさして困難ではなく、かような悪用事例があとを絶たないとの現状にも想到し、申請、証明発行、交付に関する正確性の要請と迅速性、簡便性の要請とを適切に調和させるべきであって、この事務を担当する職員としては、両印影の対照にあたり、単にこれを近接させて肉眼で判別するのみでは足らず、同一性につき疑念を催す等場合によっては拡大鏡等により高精度の識別機器を用いて判定すべく、登録済印影と異なる印影に証明を付し、かような過誤発行にかかる印鑑証明書の介在または利用による財産上の取引から招来される損害の発生を未然に防避すべき注意義務を負担するものと解するのが相当である。本件でこの点につき検討するのに、なるほど≪証拠省略≫によれば、AないしCの各印鑑証明書に顕出された印影の印章は、北嶋において印章製造屋に対し大庫の実印の印影を示し、材質、寸法を指定して印刻調整させた偽造印章ではあるものの、その印影と実印影たる乙第一号証の二のそれとを肉眼で対照しても、「か」なる文字の肩部の点の長さと傾斜度とにおいて既に両印影は相違することが容易に看取し得るほか、印影全部についても少しく注意すると漠然たる相違感を催さしめる体のものである(なお、AおよびBの各印鑑証明書に関しては印影照合に先立ち印鑑用紙中申請代理人たる北嶋自身の記入した大庫の生年が大正十二年とされていて、同女の生年とは異なっていたことが明らかであるから、すでにこの段階において同一性に関する疑念を生ずべき機会があったものというべく)から拡大鏡の使用等により高精度の識別方法によるべく、これによれば甲第六号証の鑑定書に挙示するその他の相違点の大半を認識し得たものと認められる。

次に被告は右過誤発行と損害との間に因果関係がない旨主張するが、前認定のとおり、第一回貸付は被告発行のA、B両印鑑証明書を信頼したがゆえに貸付およびこれに随伴する担保権の設定登記手続等がなされたものであることは明らかであり、≪証拠省略≫によれば第二回貨付は、右A、B両印鑑証明書に信依してなした第一回貸付の債権回収を図る目的をも併せてなされたものであり、A、B両印鑑証明書により大庫を主債務者兼担保提供者、北嶋をその代理人とそれぞれ思い込んでいたからこそ再び貸付けたものということができるから、結局前記原告の蒙った損害と被告の本件過誤発行との間には相当因果関係が存するものといわざるを得ない。

最後に過失相殺の主張について考えるのに、≪証拠省略≫によると、原告は昭和二七年設立以来不動産取引にあわせて金融業をも営むもので、後者の経験は一五年に及ぶものでありながら、未だ面識もない大庫に対して本件貸付をなすに際し、同女とは一度も面接せず、専ら代理人と称する北嶋の言と本件印鑑証明書等の存在を軽信し、その調査も本件土地の担保価値に関してのみ配慮してなしたものであることが認められる。≪証拠判断省略≫右認定事定によれば原告にも本件損害の発生もしくは拡大につき過失があるというべく、これを斟酌すると、被告の原告に対する損害賠償額は金六〇万円とするのが相当である。

よって原告の本訴請求は、右六〇万円およびこれに対する本件訴状送達の翌日が昭和四六年一一月一四日であること記録上明らかな同日から完済に至るまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し、その余は理由がないから棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法九二条、八九条を、仮執行の宣言および職権によるその免脱につき同法一九六条をそれぞれ適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 薦田茂正)

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